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大阪本社・加工場

2021.08.13

河内七墓をお盆にお参りしました。

河内七墓ってご存知ですか?

河内七墓

奈良時代に行基菩薩が河内国に作った7つの墓地のことを言います。

  1. 長瀬有馬墓地  東大阪市長瀬町2
  2. 岩田墓地    東大阪市岩田町5
  3. 額田墓地    東大阪市南荘町7
  4. 神立墓地    八尾市神立4
  5. 垣内墓地    八尾市垣内5
  6. 恩智神宮司墓地 八尾市神宮司
  7. 植松晒墓地   八尾市相生町4

こちらの七つのお墓です。

河内七墓をお盆にお参りすると?

お盆の時期にお参りをすると、家族に迷惑を掛けず極楽浄土に行けるという言い伝えがあります。

中河内では、昔から、河内七墓をお盆にお参りする風習があったそうですね。

早速、振り返ってみたいと思います。

1,恩智神宮司墓地 別名来迎寺墓地(八尾市)

河内七墓

朝、6時に着きました。お盆ということでなかなかの人です。

こちらは駐車場がありますが、5台ほどしか停められることができません。

河内七墓

歴史にありそうなお地蔵さんが、墓地のど真ん中にあります。

河内七墓

お参りした証拠に写真を撮影!

2,垣内墓地(八尾市)

河内七墓

来迎寺墓地を車で北上して10分弱。垣内墓地に到着しました。

到着したものの、墓地に駐車場がないので、遠目から歩きます。(車で回っています)

河内七墓

ありがたいことに、垣内墓地の由来が書いてありました。

垣内、教興寺、黒谷、郡川、服部川、山畑地区の共同墓地で、行基のつくった河内七墓の一つである。

戦国時代末期の小五輪塔や、江戸時代前期の年号をもつ名号板碑などが多く残っている。

墓域の東側の高台には、高さ二メートルを越える大きな五輪塔が建立されている。

空・風・地輪は後世のものであるが、火輪は軒反りも力強く鎌倉様式で、水輪も大きく重厚なものである。

全体的にもつりあいがよく、整然とした五輪塔で、市内でも代表的な石塔といえる。

河内七墓

それがこの五輪塔です。八尾市指定文化財になっています。

河内七墓

証拠写真もパチリ。お参りしているところは動画にあります。

3,神立墓地(八尾市)

河内七墓

垣内墓地をまたまた北上して、神立墓地に着きました。この時点で6時40分。

河内七墓

駐車場があるのは有り難いですね。しかも広い!

河内七墓

この絶景です。観音さんは、毎日この景色を見ています。

河内七墓

ここでも自撮りしました。あとの4墓地でももちろんしています。

神立墓地には、河内七墓についての石碑などはありませんでした。

4,植松晒墓地(八尾市)

河内七墓

7時12分、植松墓地に到着です。こちらは、弊社でいつもお世話になっている墓地です。

担当の藤田さんが朝早くから墓地にいました。

河内七墓

植松墓地、中央にあるお堂の左手に行基菩薩之墓と植松共同墓地由来があります。

河内七墓

読み上げますと、

行基菩薩は畿内に多くの寺を建て池を掘り橋をかけ布施屋を設けて仏教の布教と共に人びとの苦悩を救った。当時相つぐ天災に倒れた数多くの人のため河内に七墓を造り厚く葬った。この植松共同墓地もその一にあたり今に河内七墓詣りの信仰が伝えられる。

なかなか、読み応えあります。河内七墓を参った感がありますね。

河内七墓

5,額田墓地(東大阪市)

河内七墓

八尾市の4墓地を回った後、北上して東大阪市の額田墓地に行きました。7時51分。

額田墓地は、東大阪市営の墓地でして、隣に斎場があります。

こちらには、七墓的な表示はありませんでした。

河内七墓

5,長瀬墓地(東大阪市)

河内七墓

8時から15時まで、本来の仕事をして5墓地目の長瀬墓地についたのは、15時30分。

こちらも東大阪市営の墓地です。本来ならば、左手に斎場が見えるはずですが、現在は取り壊されています。

河内七墓

駐車場あります。

河内七墓

こちらには、行基さんが設立しただけに留まらず、融通念仏宗の中興の祖、法明上人のお墓があります。

河内七墓

法明上人は、鎌倉時代に融通念仏宗を河内・大和に広め、平野の本山の大念佛寺を中興された高僧です。

父は、清原右京亮守道といい、母は、枚岡神社の神司主計頭の娘といわれます。

上人は、弘安2年(1279)10月10日、摂津国深江の里に生まれ、25才で高野山に出家して、一代の名僧となり、ついに融通念仏宗の第七世を継承し、貞和5年(1349)6月13日、享年71才で亡くなられました。

長瀬墓地は、行基の河内七墓の一つに数えられ、もと墓地内には、鎌倉時代前期の作と考えられる木造阿弥陀如来坐像(市指定有形文化財)を本尊として伝えてきた「阿弥陀院」という墓寺があり、深江と平野の間にあった当地が、上人と関係が深かったため、ここ有馬の地に墓が営まれたものを考えられます。

上人のお墓は、一段高い石檀上に、石扉をもつ南北3.95m、東西3.75mの石玉垣で囲まれた中央に、高さ2.44mを測る花崗岩製の墓塔(無縫塔)が安置され、もと塔身の前と後面には、「法明」などの文字を刻んでいましたが、現在は失われています。

墓塔の形式から、上人のなくなられた時代より、ずっと後の江戸時代初期ごろに建造されたもので、石玉垣はさらにのち、嘉永年間(1848~1853)に下小阪村の浄雲寺の慈圓和尚が浄財を募り、寄進されたもので、明治11年に一部補修されたことが分かります。昭和49年3月25日、東大阪市文化財保護条例により史跡に指定。

(長い!)

河内七墓

こちらは、行基菩薩を祀った石碑です。

7,岩田墓地(東大阪市)

河内七墓

ラスト墓は、岩田墓地です。16時に到着。入り口には行基菩薩開基 岩田墓地とあります。

河内七墓

岩田墓地には、行基菩薩像があります。行基さんの顔をイメージして石工が作ったのでしょう!

五輪塔と行基菩薩像の間に、石板があります。

河内七墓

行基大菩薩
法相宗 和泉国大鳥郡家原村の人。

姓は高志氏幼名は史首十五歳出家して法興寺に入り、薬師寺は移って唯識を学び又徳光道昭義淵等に受法した後母と共に生駒山に隠棲し次いで諸国に遊化して寺を創建し或るいは弟子を率いて諸国を廻り架橋開田・道路の修繕等、我国社会事業史に偉績を残した聖武帝に重んぜられ天平十五年東大寺盧舎那佛金銅像(大佛)建立の御願を発し給うや、衆徒を率いて造営を助け大僧正に補せられた。

これ本邦に於ける大僧正の初である。
行基菩薩諸国遊化の際、奈良時代河内一圓天災飢饉に次々疫病の為、死亡者が続出したので、それらの村人を手厚く近くの阿弥陀寺で供養され河内七墓(市内岩田、長瀬、額田、八尾市内、神立、垣内、恩智、晒)を開かれた。

其の後、寺が焼失、阿弥陀如来立像が焼失をまぬがれ墓地入口西側に安座されている。天平勝宝元年菩薩戒を授け、大菩薩の号を賜い同年二月菅原寺東南院に寂した年八十二歳、ここに大菩薩の偉徳を偲び当墓地諸霊の鎮魂を念じ座像塔、五輪塔を建立す。

合掌
平成元年二月二日
岩田墓地管理委員会

河内七墓をお盆にお参りしてみて。

河内七墓

東大阪市出身の安達は、岩田の墓市に行ったことがあるくらいで河内七墓を回ったことがありません。

石材店に勤めていますので、一度は回ってみたいと思い決行しました!

車で、七墓をお詣りしたのですが、効率的に回っても三時間くらいは掛かるのではないでしょうか?

大阪七墓巡りというのがあるように、

(お友達の陸奥賢さんが、現在復活されてお盆に大阪七墓巡りをされています。)

当時の河内の民にとって、河内七墓をお詣りするということは、一つの観光であったように感じます。

歩いてお参りするには、一日ではしんどいかなと思うのですが、道中、楽しい後楽だったのでは。

とにかく、私は極楽浄土に行けることは確定しましたので、現世では安心して思い残すことなく、人生を楽しみます。

ありがとうございました!

河内七墓

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